竹内 まりや もう一度。 もう一度

もう一度 竹内まりや 歌詞情報

竹内 まりや もう一度

一部引用する。 太字は高井。 中森明菜の『駅』で山下達郎が違和感を感じた歌詞というのが、2番サビフレーズのラストにある 「初めてわかるの痛いほど 私だけ愛していたことも」という部分。 中森明菜バージョンではここの部分を、 「(あなたは)私を愛していないけど、私は愛していた」という解釈のもと歌われていたのだとか。 しかし竹内まりやとしては、 「(あなたは)私のことを愛していたのが、痛いほど分かる」という意味を込めて作詞をしています。 このため双方の解釈が大きくズレており、一時は物議を醸していたナンバーが『駅』です。 驚いた。 「この曲が『私』の片思いを描いている」とは 1ミリも考えたことがなかったからだ。 「正月早々、なんでこんなネタやねん」と思いつつ、私の解釈を書いてみる。 刻まれている「苦い思い出」 最初から行こう。 見覚えのある レインコート 黄昏の駅で 胸が震えた はやい足どり まぎれもなく 昔愛してた あの人なのね 帰りのラッシュ時、昔の恋人をみかける導入部は、色々と伏線はあるものの、スムーズに情景がうかぶ。 どうやら、この「黄昏の駅」は東急東横線の渋谷駅がイメージされているようだ。 懐かしさの一歩手前で こみあげる 苦い思い出に 言葉がとても 見つからないわ あたながいなくても こうして 元気で暮らしていることを さり気なく 告げたかったのに 懐かしさよりも「苦い思い出」が先立つのは、かつての男性との関係によって 幸福感よりも苦しみが「私」の中に刻まれているからだ。 だから「さり気なく 告げたかったのに」言葉が見つからない。 核心は伝えたかった言葉、「あなたがいなくても こうして元気で暮らしていること」という部分だ。 つまり「私」は、 男性が今も「彼女は自分と別れた後、幸せになっただろうか」と気にかけてくれていると思っている。 この一点だけをもってしても、「愛していたのは『私』の方だけだった」という解釈は成り立たないだろう。 男性は2年前から既婚者だった 二年の時が 変えたものは 彼のまなざしと 私のこの髪 それぞれに待つ人のもとへ 戻ってゆくのね 気づきもせずに ここは情報量が多い。 まず「私」と男性はこの2年、おそらく別れた直後から再会していないし、姿を見かけたこともない。 なのに「私」は、2人がこれから「それぞれに待つ人のもとへ」帰ると知っている。 つまり2年前の別れの時点で、 少なくとも男性側はすでに「待つ人のもとへ戻ってゆく人=既婚者」だった。 子どももいるのだろう、と私は想像する。 これで最初の「懐かしさ」よりも先にこみあげる「苦い思い出」がより明白になる。 「待つ人のもとへ戻っていく人」を想い続けた日々こそが「苦い思い出」だ。 そして2年前の交際時には、女性側だけが独身だったと私は解釈する。 根拠は次のパートだ。 ひとつ隣の車輛に乗り うつむく横顔 見ていたら 思わず涙 あふれてきそう 今になって あなたの気持ち 初めてわかるの 痛いほど 私だけ 愛してたことも ここが この曲の最重要パートだ。 2年の間に変わり果てた「彼のまなざし」と「うつむく横顔」から「私」は衝撃を受ける。 「私」との別れが面差しを変えてしまうほどの打撃だったこと、それほど男性が深く「私」を愛していたことを眼前に突きつけられ、「私」の目からは思わず涙があふれそうになる。 ここで「私だけ 愛してた」と「痛いほど」わかるのは、 「結婚相手ではない人『だけ』を愛することがあり得る」と自身が感じたからだ。 その理解に至った事実が、 女性も同じ立場=既婚者になったのを示す。 裏返せば、2年前の独身だった「私」には、それは理解不能だった。 この「今になって」「初めて」、つまり、この瞬間にそう気づいたという描写は、危うさを孕む。 男性の心理に同調することで、「私」は自身の現在の結婚生活に疑念を抱いてしまっている。 姿を見るだけで「胸が震え」、隣の車輛から変わり果てた横顔を見るだけで「思わず涙があれてきそう」な「私」は、まだ男性を愛している。 だから、2年という時間を置いても、「元気で暮らしている」と「さり気なく」告げる言葉が見つからなかったのだ。 そして現実に帰る「私」 ラッシュの人波にのまれて 消えてゆく 後ろ姿が やけに哀しく 心に残る 改札口を出る頃には 雨もやみかけた この街に ありふれた夜がやって来る 首都圏ならラッシュ時に「のまれて消えていく」ほどの人波があるだろう。 その見送った後ろ姿が「私」に哀しい印象を残す。 ごく自然な、ありきたりな描写に見える。 だが、私は昔、この部分に引っかかりを感じていた。 気になったのは、 「やけに」という言葉だ。 「やけに」には「とても強く」という強調と同時に 「度を越して」「不審なほど」という、ややネガティブなニュアンスがある。 聞き流すようにこの曲を聴いてた頃は、「ここで『哀しく』に『やけに』をつけるのは、女性の心理描写として、ちょっと感じ悪いな」と軽い瑕疵のように思えたものだった。 だが、竹内まりやが、 吟味もしないで語呂だけで「やけに」という強い言葉を置くはずがないのだ。 この曲を聴きこむうちに、 「ここは『やけに』しかない…」と逆に唸らされた。 カギは次の「改札口を出る頃には」にある。 まず、私の解釈は 「『私』と男性は普段、同じ駅を利用していないであろう」という推測に立っているのをお断りしておこう。 かつて「私」は既婚男性と恋愛関係にあった。 今は別れているとはいえ、家族と一緒にいる男性と偶然会ってしまうリスクは避けたはずだ。 2年間も姿すら見かけなかったのも、「普段は違う駅を利用している」という解釈を補強してくれる。 路線から違っていてもおかしくないと思う。 「私」はこの日、思いを残す昔の恋人を追って、普段とは違う、男性の利用駅で下車してしまったのだ。 だが、 下車して後ろ姿を追ううちに「私」の心は急速に現実に戻って行く。 このパートの直前には間奏が挟まっている。 「私だけ」を愛していたと気づく瞬間から、電車を降りるまでに、絶妙な間がある。 この間に現実に引き戻され、「私」が男性を追う歩みは止まる。 「私」は踏みとどまり、男性は人波にのまれて消えてゆく。 「私」の心には、強い哀しみが残るが、 それは「やけに」と表現すべき過剰な感傷だ。 下手に溺れてしまえば「苦い思い出」の繰り返しになりかねない感傷だ。 ここまでのおぜん立てがあって、「改札口を出る頃には」という一節の情景がはっきり浮かび上がってくる。 男性の姿が見えなくなるまで見送った「私」は、 少し間を置いて、それでも改札口から出てみた。 「出る頃には」の「頃」という言葉に、行動にタイムラグがあったニュアンスがにじむ。 改札から出てみると、雨もやみかけている。 胸を震えさせた引き金の「見覚えのあるレインコート」も無用のものになろうとしている。 雨がやめば、「この街に ありふれた夜がやって来る」のだ。 そのことを、「私」は改札口を出て確認する。 その夜に、特別なものは、もう何もない。 「私」が最後に思いを吹っ切れたのはなぜか。 想像するに、 女性はかつての交際時に男性の利用駅に来たことがあったのではないだろうか。 唐突だが、ここで私が思い起こすのは名作「ガラスの仮面」の劇中劇「通り雨」だ。 芸能界を追放され、学校で一人芝居を続ける北島マヤが選んだこの演目では、主人公の少女・佐藤ひろみの父親が同じ会社に所属する井村早苗と恋愛関係にある。 ある雨の日、ひろみは傘を忘れた父を駅まで迎えに行く。 改札の手前でたたずむ井村を、ひろみが見つける。 井村早苗の「思いつめたような表情」と、彼女の視線が父に注がれていたことに、ひろみが気づく。 この後、いくつかのシーンを挟み、最後には井村早苗が父と別れる決心をしたことをひろみは知る。 劇中劇の最後にはこんなセリフが置かれている。 「通り雨…!そうよ きょうの出来事は通り雨だったのよ」 「明日になれば またもとにもどる…!」 話を「駅」に戻そう。 「私」は男性の降りた駅に足を運んだことがあった。 そしてその駅の改札は、2年前の交際時には「足を踏み入れてはいけない境界線」だったのではないだろうか。 車中では「懐かしさ」と新たに気づいた自身と男性の思いに揺れていた「私」は、ホームに降り、改札へと近づくにつれ「苦い思い出」へと引き戻される。 車中から「駅」への場面転換で、「私」の心理は急激に変化する。 そして、かつては苦い境界線だった改札を出てみれば、雨はやみかけている。 「私」の中の「通り雨」も、過去のものとなる。 「私」は自分の「駅」へと帰る この曲は最後、「Lalala……」というリフレインで終わる。 カラオケだと「もういいから」と切られてしまうほど長いリフレインだ。 だが、竹内まりやと山下達郎が、「ここはちょいと余韻を残しておきましょうか」といった程度の意図で、こんな長さのリフレインを挿入するはずがない。 私は曲がこのリフレインに差し掛かると、踵を返して再び改札を通り、一人で電車に揺られる「私」の姿を思い浮かべる。 改札を出てしまっているからと言って、タクシーを拾う姿は想像できない。 曲名の通り、 「私」は自分自身の降りるべき「駅」へと向かうのだ。 もう、車中で「涙があふれてきそう」になど、なりはしないで。 ターミナルという人生の交差点。 一組の男女、それぞれが帰るべき場所。 この名曲は3つの「駅」を描いている。 ========= ご愛読ありがとうございます。 投稿すると必ずツイッターでお知らせします。 評判の良い投稿を集めたマガジン、再掲します。 この歌の解釈大変興味深く拝読しました。 そこで、質問したくなり、noteに登録してコメントを書いています。 質問したいことは、「二年の時が 変えたものは彼のまなざしと 私のこの髪」という歌詞の「私のこの髪」の部分です。 これは何を意味していると解釈していらっしゃいますか?「彼のまなざし」は大きく変わったのに、「私は2年間で髪が伸びただけ」という意味ではないでしょうか。 高井さんの解釈では、この女性は2年間で自らも結婚したとのことですが、そんな大きな「変わったもの」があったのに、それは「変わったもの」に入らないのでしょうか?この後の歌詞に「それぞれに待つ人の元に戻っていく」とあるので、この女性にも「待っている人」ができたと解釈できるのですが、そうなるとどうしても「変わったものが髪だけ」という歌詞とうまく整合しないのです。 そこで、高井さんが「私のこの髪」をどう解釈されたかお伺いしたいと考えた次第です。

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竹内まりや「もう一度」が主題歌のドラマは?曲もヒットしたのか?

竹内 まりや もう一度

一部引用する。 太字は高井。 中森明菜の『駅』で山下達郎が違和感を感じた歌詞というのが、2番サビフレーズのラストにある 「初めてわかるの痛いほど 私だけ愛していたことも」という部分。 中森明菜バージョンではここの部分を、 「(あなたは)私を愛していないけど、私は愛していた」という解釈のもと歌われていたのだとか。 しかし竹内まりやとしては、 「(あなたは)私のことを愛していたのが、痛いほど分かる」という意味を込めて作詞をしています。 このため双方の解釈が大きくズレており、一時は物議を醸していたナンバーが『駅』です。 驚いた。 「この曲が『私』の片思いを描いている」とは 1ミリも考えたことがなかったからだ。 「正月早々、なんでこんなネタやねん」と思いつつ、私の解釈を書いてみる。 刻まれている「苦い思い出」 最初から行こう。 見覚えのある レインコート 黄昏の駅で 胸が震えた はやい足どり まぎれもなく 昔愛してた あの人なのね 帰りのラッシュ時、昔の恋人をみかける導入部は、色々と伏線はあるものの、スムーズに情景がうかぶ。 どうやら、この「黄昏の駅」は東急東横線の渋谷駅がイメージされているようだ。 懐かしさの一歩手前で こみあげる 苦い思い出に 言葉がとても 見つからないわ あたながいなくても こうして 元気で暮らしていることを さり気なく 告げたかったのに 懐かしさよりも「苦い思い出」が先立つのは、かつての男性との関係によって 幸福感よりも苦しみが「私」の中に刻まれているからだ。 だから「さり気なく 告げたかったのに」言葉が見つからない。 核心は伝えたかった言葉、「あなたがいなくても こうして元気で暮らしていること」という部分だ。 つまり「私」は、 男性が今も「彼女は自分と別れた後、幸せになっただろうか」と気にかけてくれていると思っている。 この一点だけをもってしても、「愛していたのは『私』の方だけだった」という解釈は成り立たないだろう。 男性は2年前から既婚者だった 二年の時が 変えたものは 彼のまなざしと 私のこの髪 それぞれに待つ人のもとへ 戻ってゆくのね 気づきもせずに ここは情報量が多い。 まず「私」と男性はこの2年、おそらく別れた直後から再会していないし、姿を見かけたこともない。 なのに「私」は、2人がこれから「それぞれに待つ人のもとへ」帰ると知っている。 つまり2年前の別れの時点で、 少なくとも男性側はすでに「待つ人のもとへ戻ってゆく人=既婚者」だった。 子どももいるのだろう、と私は想像する。 これで最初の「懐かしさ」よりも先にこみあげる「苦い思い出」がより明白になる。 「待つ人のもとへ戻っていく人」を想い続けた日々こそが「苦い思い出」だ。 そして2年前の交際時には、女性側だけが独身だったと私は解釈する。 根拠は次のパートだ。 ひとつ隣の車輛に乗り うつむく横顔 見ていたら 思わず涙 あふれてきそう 今になって あなたの気持ち 初めてわかるの 痛いほど 私だけ 愛してたことも ここが この曲の最重要パートだ。 2年の間に変わり果てた「彼のまなざし」と「うつむく横顔」から「私」は衝撃を受ける。 「私」との別れが面差しを変えてしまうほどの打撃だったこと、それほど男性が深く「私」を愛していたことを眼前に突きつけられ、「私」の目からは思わず涙があふれそうになる。 ここで「私だけ 愛してた」と「痛いほど」わかるのは、 「結婚相手ではない人『だけ』を愛することがあり得る」と自身が感じたからだ。 その理解に至った事実が、 女性も同じ立場=既婚者になったのを示す。 裏返せば、2年前の独身だった「私」には、それは理解不能だった。 この「今になって」「初めて」、つまり、この瞬間にそう気づいたという描写は、危うさを孕む。 男性の心理に同調することで、「私」は自身の現在の結婚生活に疑念を抱いてしまっている。 姿を見るだけで「胸が震え」、隣の車輛から変わり果てた横顔を見るだけで「思わず涙があれてきそう」な「私」は、まだ男性を愛している。 だから、2年という時間を置いても、「元気で暮らしている」と「さり気なく」告げる言葉が見つからなかったのだ。 そして現実に帰る「私」 ラッシュの人波にのまれて 消えてゆく 後ろ姿が やけに哀しく 心に残る 改札口を出る頃には 雨もやみかけた この街に ありふれた夜がやって来る 首都圏ならラッシュ時に「のまれて消えていく」ほどの人波があるだろう。 その見送った後ろ姿が「私」に哀しい印象を残す。 ごく自然な、ありきたりな描写に見える。 だが、私は昔、この部分に引っかかりを感じていた。 気になったのは、 「やけに」という言葉だ。 「やけに」には「とても強く」という強調と同時に 「度を越して」「不審なほど」という、ややネガティブなニュアンスがある。 聞き流すようにこの曲を聴いてた頃は、「ここで『哀しく』に『やけに』をつけるのは、女性の心理描写として、ちょっと感じ悪いな」と軽い瑕疵のように思えたものだった。 だが、竹内まりやが、 吟味もしないで語呂だけで「やけに」という強い言葉を置くはずがないのだ。 この曲を聴きこむうちに、 「ここは『やけに』しかない…」と逆に唸らされた。 カギは次の「改札口を出る頃には」にある。 まず、私の解釈は 「『私』と男性は普段、同じ駅を利用していないであろう」という推測に立っているのをお断りしておこう。 かつて「私」は既婚男性と恋愛関係にあった。 今は別れているとはいえ、家族と一緒にいる男性と偶然会ってしまうリスクは避けたはずだ。 2年間も姿すら見かけなかったのも、「普段は違う駅を利用している」という解釈を補強してくれる。 路線から違っていてもおかしくないと思う。 「私」はこの日、思いを残す昔の恋人を追って、普段とは違う、男性の利用駅で下車してしまったのだ。 だが、 下車して後ろ姿を追ううちに「私」の心は急速に現実に戻って行く。 このパートの直前には間奏が挟まっている。 「私だけ」を愛していたと気づく瞬間から、電車を降りるまでに、絶妙な間がある。 この間に現実に引き戻され、「私」が男性を追う歩みは止まる。 「私」は踏みとどまり、男性は人波にのまれて消えてゆく。 「私」の心には、強い哀しみが残るが、 それは「やけに」と表現すべき過剰な感傷だ。 下手に溺れてしまえば「苦い思い出」の繰り返しになりかねない感傷だ。 ここまでのおぜん立てがあって、「改札口を出る頃には」という一節の情景がはっきり浮かび上がってくる。 男性の姿が見えなくなるまで見送った「私」は、 少し間を置いて、それでも改札口から出てみた。 「出る頃には」の「頃」という言葉に、行動にタイムラグがあったニュアンスがにじむ。 改札から出てみると、雨もやみかけている。 胸を震えさせた引き金の「見覚えのあるレインコート」も無用のものになろうとしている。 雨がやめば、「この街に ありふれた夜がやって来る」のだ。 そのことを、「私」は改札口を出て確認する。 その夜に、特別なものは、もう何もない。 「私」が最後に思いを吹っ切れたのはなぜか。 想像するに、 女性はかつての交際時に男性の利用駅に来たことがあったのではないだろうか。 唐突だが、ここで私が思い起こすのは名作「ガラスの仮面」の劇中劇「通り雨」だ。 芸能界を追放され、学校で一人芝居を続ける北島マヤが選んだこの演目では、主人公の少女・佐藤ひろみの父親が同じ会社に所属する井村早苗と恋愛関係にある。 ある雨の日、ひろみは傘を忘れた父を駅まで迎えに行く。 改札の手前でたたずむ井村を、ひろみが見つける。 井村早苗の「思いつめたような表情」と、彼女の視線が父に注がれていたことに、ひろみが気づく。 この後、いくつかのシーンを挟み、最後には井村早苗が父と別れる決心をしたことをひろみは知る。 劇中劇の最後にはこんなセリフが置かれている。 「通り雨…!そうよ きょうの出来事は通り雨だったのよ」 「明日になれば またもとにもどる…!」 話を「駅」に戻そう。 「私」は男性の降りた駅に足を運んだことがあった。 そしてその駅の改札は、2年前の交際時には「足を踏み入れてはいけない境界線」だったのではないだろうか。 車中では「懐かしさ」と新たに気づいた自身と男性の思いに揺れていた「私」は、ホームに降り、改札へと近づくにつれ「苦い思い出」へと引き戻される。 車中から「駅」への場面転換で、「私」の心理は急激に変化する。 そして、かつては苦い境界線だった改札を出てみれば、雨はやみかけている。 「私」の中の「通り雨」も、過去のものとなる。 「私」は自分の「駅」へと帰る この曲は最後、「Lalala……」というリフレインで終わる。 カラオケだと「もういいから」と切られてしまうほど長いリフレインだ。 だが、竹内まりやと山下達郎が、「ここはちょいと余韻を残しておきましょうか」といった程度の意図で、こんな長さのリフレインを挿入するはずがない。 私は曲がこのリフレインに差し掛かると、踵を返して再び改札を通り、一人で電車に揺られる「私」の姿を思い浮かべる。 改札を出てしまっているからと言って、タクシーを拾う姿は想像できない。 曲名の通り、 「私」は自分自身の降りるべき「駅」へと向かうのだ。 もう、車中で「涙があふれてきそう」になど、なりはしないで。 ターミナルという人生の交差点。 一組の男女、それぞれが帰るべき場所。 この名曲は3つの「駅」を描いている。 ========= ご愛読ありがとうございます。 投稿すると必ずツイッターでお知らせします。 評判の良い投稿を集めたマガジン、再掲します。 この歌の解釈大変興味深く拝読しました。 そこで、質問したくなり、noteに登録してコメントを書いています。 質問したいことは、「二年の時が 変えたものは彼のまなざしと 私のこの髪」という歌詞の「私のこの髪」の部分です。 これは何を意味していると解釈していらっしゃいますか?「彼のまなざし」は大きく変わったのに、「私は2年間で髪が伸びただけ」という意味ではないでしょうか。 高井さんの解釈では、この女性は2年間で自らも結婚したとのことですが、そんな大きな「変わったもの」があったのに、それは「変わったもの」に入らないのでしょうか?この後の歌詞に「それぞれに待つ人の元に戻っていく」とあるので、この女性にも「待っている人」ができたと解釈できるのですが、そうなるとどうしても「変わったものが髪だけ」という歌詞とうまく整合しないのです。 そこで、高井さんが「私のこの髪」をどう解釈されたかお伺いしたいと考えた次第です。

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竹内まりや『もう一度』

竹内 まりや もう一度

6枚目 竹内まりや 『もう一度』 1981年に一旦活動を休止し、家事の合間に作詞作曲。 マイペースに積み上げられた作品のクオリティの高さにびっくりした彼女の夫である山下達郎がプロデュースを担当した84年の復帰作がこれ。 音が鳴った瞬間にビーチボーイズばりの夫のコーラスと、ザクザク斬り込んでくるリズムが混ざり合い最高に気持ちいい。 曲調はサマーアンセムなシティソウル歌謡曲。 西海岸というより東海岸の洗練された楽曲。 そうだなぁ、フォーシーズンズ直系の構成パターンにビーチボーイズ風コーラスの応酬、とでも言っておこうかな。 なんだか偉そうでごめんなさいね、僕は、竹内さんはジャンルを問わずいろいろな洋楽を聴きアメリカを旅した女性と感じたんだ。 オールディーズはもちろん、アーシーなロックからダウントゥアースなフォークソング、マイアミの海やニューオリンズのお祭り… 好奇心がエネルギーになり、普遍的な音楽ができあがるんだなと。 そりゃね、実際に経験しないと風化しない極上のメロディは作れはしないよ。 そしてサウンドだけではなく、曲が進むと徐々にドロドロしてくる歌詞、これも良い! お行儀がいい歌詞じゃないのも竹内さんの独創性。 なんだろう、専業主婦が抱える旦那への愚痴をぐっと抑えているのか、それともストレートにぶつけているのか、どうとでも取れるちょっと恐い感じ、僕は好きです。 美しいメロディにメッセージを込めて歌う魅力が、同じような思いをした人々の共感を生むんだろうね、核心を突いたメッセージに確固たる自立はあるけれど、はみ出してはいないんだよね、奥ゆかしい日本女性というよりもアメリカの賢い女性みたいだしね。 この楽曲は最高のコミュニケーションから産まれたと思うよ、夫と妻、プロデューサーとシンガーソングライター、男と女の関係性でちゃんと向かい合い、相手の話を聞き、正確に把握し、丁寧に作られた感じがビシビシ伝わる。 同年に長女を出産、山下家はハッピーに包まれた。 美しいね。 そして、独創性こそ普遍なんですね。 というわけで、サマーアンセムな女性ヴォーカルによるシティソウルのプレイリストを作っちゃいました、Apple MusicやSpotifyで聴いてみてね。

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