色即是空 空即是色 違い。 佛经里说的“色即是空,空即是色”是什么意思?_百度知道

色即是空・空即是色(2)

色即是空 空即是色 違い

色即是空の意味を知ったなら、次は空即是色の視点を持とう 般若心経のなかに「 色即是空(しきそくぜくう)」という言葉がでてくる。 掛軸や色紙などに揮毫される言葉として用いられたり、禅語として紹介されたりすることもあって、比較的世によく知られた言葉となっている。 たとえ意味は知らずとも、「色即是空」という言葉自体は耳にしたことがあるという方も少なくないのではないだろうか。 ただ、色即是空という言葉の説くところや、「 空(くう)」といった概念は難解であるという先入観が強いようで、意味を知っているという方はやはり少ないようである。 「(色即是空という)言葉は聞いたことあるけど、それだけ」 そんなふうに、意味の理解まで踏み込むことはしないというのが、大方の現実ではないだろうか。 しかし、それではいかにももったいない。 理解には智解と体解がある 色即是空も、般若心経の内容も、これを 理知的に頭で理解するということはそうも難しいことではない。 強固なのは内容の理解ではなくて、むしろ「難解なんだろうな」と理解を遠ざけてしまう先入観の壁のほう。 この壁はぜひとも粉々に砕きたい。 ただまあ、簡単に理解できると言ってしまうのもやや問題で、たしかに般若心経には少々特別な難しさがある。 先に「頭で理解することは難しくない」と書いたが、般若心経の難しさとは内容を理解することにあるのではなくて、そこで説かれている「空」という真理を 実生活のなかで感じながら生きるという実践にこそある。 智解(頭での理解)は易いが、体解(体験を通して腑に落ちる)は難い、とでもいえばいいだろうか。 しかし、腑に落ちるような理解なくして、本当の意味で理解するなどということはできないのは事実である。 頭で理解するだけなら何も難しいことはない。 が、それではそもそも空を理解したとは言えない。 とはいえ、 まずは理知的に頭で理解しなければ、空の世界を感じながら生きるということは一層難しい。 体解を重視するあまり智解を軽視してしまうというのは、それはそれでまた非常に危ういことだ。 禅の常套句である「」も、文字や智解を軽視することではなくて、理知的な理解が理解のすべてではないという意味である。 このことを履き違えないようにして、智解と体解の両立をはかっていきたい。 ということで、ここではまず「空」を頭で理解していただくことに焦点をしぼり、 次のステップである実生活のなかで「空」を味わって生きるというのは、個々人の人生の在りように委ねたい。 重ねて、世に溢れる般若心経に関する数多の文章は、大概においてそのような性質のもの、つまりは 智解のための文字にすぎないことも知っておいていただきたい。 体験なしに、文字を読んですべてを理解しようというは、一度も泳いだことがないのに泳ぎをマスターしようとするくらい無謀なことである。 般若心経と色即是空 般若心経は「空(くう)」という真理にのっとって、存在がどのように存在しているのかを説いた経典である。 色即是空という言葉は、「 あらゆるものは空である」といった意味の言葉であり、般若心経の中核を突く言葉であるといえる。 色即是空を説きたいがために般若心経が存在している、と言ってしまってはやや大袈裟かもしれないが、筋としてはそのようなものであるとの予備知識を持っておいても間違いではない。 それで、主題である色即是空という言葉であるが、この漢文を訓読文にすると、 「 色はすなわちこれ空」 となる。 平たく言えば 「 色というのは、空なんだよ」 ということ。 つまり、ここで用いられている「色」と「空」の意味さえ理解できれば、色即是空という言葉の意味がわかるというわけである。 色とは何か 「色」の原語は「ルーパ」という言葉で、これは 「物質的なもの」「形あるもの」を意味している。 人間でいえば肉体を指す。 精神的なものではない。 紀元後、経典がシルクロードを経由して中国に伝わった際、インドの古代言語であるサンスクリット語やパーリ語で書かれた経典はほとんどの中国人には読めなかった。 そこで自分たちの言語である 漢字に訳すという経典の漢訳作業が行われたわけだが、そのなかでルーパという言葉は「色」と訳された。 これはよく考えてみれば、なかなか的を射た訳と言えるかもしれない。 石でも木でも人間でも、 物質的なものというのはたいてい色がついているのだから、「物質的なもの」を漢字1文字で訳す際に「色」を当てたのは、なるほど納得できる。 現代でこそ透明なプラスチックやガラス製品が当たり前のように身近に存在しているが、当時は透明なものなどあまりなかったのだろう。 物といえば色が付いている。 だから物質的なものと精神的なものとを分ける際、物質的なものには「色」の1字を当てた。 うんうん、納得できる。 つまり色即是空とは「 物質的なものは空である」と言っているわけだ。 したがって残る問題は、「空」である。 空とは何か 「空」の原語は「シューニャ」という。 意味は「 何もない」といったもの。 ちなみにシューニャは数字の0「ゼロ」も意味する。 「0」と「何もない」。 たしかに共通するところがある。 ただ、この「何もない」という訳には語弊があるというか、少々補足が必要な言葉なので注意しておかなくてはいけない。 「空」という言葉が指す「何もない」とは、 単に何もないことを意味しているのではない。 たまに、「空とは、からっぽということ」で説明を終えてしまう文章を見かけることがあるが、それでは何も説明したことにはならない。 ここに肉体を持った人間が確かにいるのに、それが「ない」とはどういうことなのか。 物体が存在しないといっているわけではない。 物質的なものが、すなわち「ない」と主張するところの真意は、きちんと説明する必要がある。 「何もない」の意味 「空」が指し示す「何もない」とは、次のような意味である。 まず、下の画像のような、1台の車をイメージしていただきたい。 見ればわかるが、車というのは 多くの部品が集まり組み合わさることによってできている。 エンジン、タイヤ、シャーシ、シート、ハンドル……。 ネジやナットや電球などの細かな部品まで挙げてしまえばきりがないほど、とにかく膨大な量の部品が集まってできている。 車というのはそれらの部品の集合体に付けられた「名前」であって、厳密には「車」という物があるわけではない。 部品が「 車という状態として集まっている」とき、その部品の集合体を指して「車」と呼んでいるわけである。 つまり、車という物体があるわけではなく、私たちは車という概念に合致するものを車と呼んでいるにすぎないのであって、車という固有の物体が存在しているわけではない。 これは車をバラバラに分解してみるとわかりやすいかもしれない。 車を成り立たせていた各部品を、一度単体の部品の状態に戻す。 エンジン、タイヤ、シャーシ、シート、ハンドルも、ネジ1本にいたるまですべてバラバラに戻す。 すると、 車を成り立たせていたものはすべて残っているにも関わらず、車の形をしていないがために、我々はそれらの部品群を車とは認識しなくなる。 人によっては、ガラクタや鉄屑と認識するかもしれない。 車とまったく同じものが揃っていながら、形が違うと車と認識しないのである。 これは、改めて考えてみればじつに不思議なことではないだろうか。 その車を成り立たせていたものが1つ残らずすべて存在しているにも関わらず、それは車でないと頭が判断するのだから。 このことが何を意味するかというと、それはつまり、車とは「 状態」にすぎないのだという真実だ。 あらゆるものは「状態」としてある 世にある様々な物質が集まって、車は車という状態を保っている。 それが保たれているあいだは車であるが、ひとたびバラバラになれば車ではなくなる。 最初から車があったわけではなく、真実は 車という状態に物体が保たれていたということ。 したがって目の前に車があっても、それは「車」という物体なのではなく、「車」という状態に集まった物質群にすぎない。 この真理はもちろん車に限らず、人も含めたあらゆる存在に共通する。 あらゆる存在は、状態として存在しているだけで、固定的な存在ではない。 どのようなものでも、そこに不変の本体は存在しない。 物体は必ず物質が集まって形を為しているのであって、本体自体が不変の物質というものはこの世界のどこにも存在しない。 今は中学校で物体は原子が集まって成り立っていることを常識として学ぶから、この真理は割とすんなり理解していただけるのではないか。 つまり、 「空」という言葉が示す「何もない」とは、すべての物体は物質が集まってできた「状態」にすぎず、そこに不変の本体とでもよぶべき固定的な自性は「ない」という意味である。 車は車という状態で存在しているが、人がそれを車と認識するから車と認識されるのであって、車自体が車なのではない。 車は総体に付けられたただの名前にすぎない。 世界に固定的な「車」という物体があるわけではないという意味が、少しややこしいかもしれないが、理解していただけるのではないだろうか。 色即是空の意味 以上のことを念頭に、もう一度「色即是空」という言葉を眺めてみたい。 色はすなわちこれ空。 物体は空である。 すべての物は集合体で、物の名前は集合体に付けられた総称としての名前であって、 その名前自体の物体が存在するわけではない。 車は車であるが、 車という自性の物体なのではない。 つまり、車は存在しえない。 だから、色はすなわち空なのである あらゆる存在には自性がなく、すべて無自性なのだ。 したがってあらゆる存在は、固定的な物体としては存在していない。 状態としてのみ存在している。 存在は有るように見えるが、固定的にあるのではない。 しかしそれは単に何もないのでもない。 あるようで、ない。 ないようで、ある。 それが、 存在が存在するということの意味であり、存在の在り方の真理であり、色即是空の意味なのである。 空の別名「仮和合」 空という言葉は、 仮和合 (けわごう)という言葉で表現されることもある。 私は断然この仮和合という名前のほうが訳として適切で、わかりやすいと思っている。 空では掴み所がない。 仮和合という言葉の意味はズバリ言葉どおりで、 あらゆるものは仮に和合した(集まった)ものだということ。 空が言いたいことを的確にとらえた別名なので、シューニャの訳としては断然こちらのほうがわかりやすいと思いはしないだろうか。 すべての物体は、仮の姿なのである。 そこに不変の自性は存在しない。 人であっても、 自分を自分と認識する頭の働きがあるから自分を「有る」と思うだけであって、その認識さえなくなれば「自分」という認識はなくなる。 自と他との境がなくなる。 それはある意味で、存在の真理に近づく在り方といえるのかもしれない。 空は虚無か このような「物体に自性はない」という話をすると、ちょっと悲しい気持ちになる人もいる。 虚無的であるといって受け入れたくない人もいる。 無常という言葉も同じで、それが真実だったとしても、それを知って何がどう幸せになるのかと疑問を抱く人もいる。 既存の価値観が崩れてしまいかねないから、仏教はニヒリズム(虚無主義)だと主張する人もいる。 たしかに「何もない」という言葉で終わってしまえば、虚無であると思われてもしかたない。 しかしそれは色即是空の全体を知らないがための勇み足というか、少々早計な考えである。 般若心経でも、 色即是空のすぐあとに空即是色と続いている。 これが極めて重要なのだ。 この意味を知らなければ、色即是空の真意を知ったとは到底言えない。 色即是空という言葉は、空という真理の半分しかあらわしていない言葉なのである。 そしてもう半分を補うのが、 空即是色。 空を本当に理解するためには、この空即是色の理解が絶対に欠かせない。 空即是色という逆の視点 色は空であるという事実は了解していただけたことと思う。 あらゆる存在に自性はないから、すべての存在は空という流動的な存在のしかたで世界に存在している。 これは自然の摂理というか、 普遍的な事実である。 だからこそ真理と呼ばれるに値する。 ここにもう1つの重要な事実、「 空だからこそ色が存在する」という、空即是色の視点を加えたい。 そうでなければ空の理解は不完全なものとなってしまうからである。 あらゆるものは空であり自性がない。 それが色即是空。 しかしこれを逆に考えると、 自性がないからこそ世界にはあらゆる姿をした物体が存在できているとみることができる。 もし固定的なものが存在していたら、それは変化をしないものとなってしまうからだ。 しかし世の中にそのようなものはない。 すべてのものが「変化する」という理のなかにある。 だからこそ、あらゆるものが生まれることができる。 固定的なものがないからこそ、あらゆる存在は流動的に変化をして、その結果万物として存在することができる。 つまり、存在には自性のような固定性はないが、固定性がないからこそ万物に姿を変えて生まれ変わることができる柔軟性を持っている。 これが空即是色の視点。 空だからこそ、物体が万物の姿で存在することができているのである。 色即是空と空即是色の関係 色即是空が「 存在が滅する真理」を説いた言葉だとすれば、空即是色は「 存在が生まれる真理」を説いた言葉ともいえるだろう。 この 2つでもって空なのであって、色即是空だけが空なのではない。 無常という言葉も、滅する側面(色即是空)だけが声高々に説かれ、生まれることの側面(空即是色)はほとんど語られない。 それが私には不思議でしょうがない。 それでは空を負のイメージで理解してしまう人を増やすだけではないか。 空即是色という後半を説かずに存在の有り様は絶対に説ききれないのに、なぜ生まれる側を説かないのか。 前半の色即是空ばかり説いてしまえば、あらゆるものは変化し滅する、というだけの話になってしまいかねない。 それではいけない。 というか、そうではない。 物事は滅するという方向にだけ進んでいるわけでは決してないことを説かなければ、それは誤りとすら言えるのではないか。 空という言葉が言いたいのは、「物体は滅する」ということではないのだ。 それでは無常という真理を半分しか説いていない。 空も無常も、物体が滅する悲しい真理を説いているのではなく、ニュートラルな、プラスでもマイナスでもない ただの存在の真理を真正面から説いた言葉である。 あらゆるものは変化するという、存在の真理である。 「明るい無常観」と空即是色 東日本大震災のとき、津波によって破壊された町の様子を目の当たりにして、多くの人が無常を痛感したことと思う。 しかし、無常だからこそ町は再び復興するのだと、そのように考え希望を掲げる人もいた。 その無常観はある雑誌で「 明るい無常観」と賞賛された。 空即是色の視点とは、いわばこの明るい無常観のことだと私は考えている。 一方の色即是空は、どちらかと言えば暗い無常観。 けれども両者はどちらも真理で、どちらかのみでは完全な円にならずに半円で終わってしまう。 空を理解しようと思うなら、 円満な満月のような理解でなくては正しくない。 明るい無常観を掲げた人のように、存在を生みだす真理もまた空であることを忘れてはいけない。 般若心経が色即是空の後にすぐ空即是色と説いているのは、そのためだ。 「色即是空」と「空即是色」 ともにあって1つの円。 それが空の真理である。

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「色即是空」の意味とは?『般若心経』の解釈と使い方・例文も

色即是空 空即是色 違い

佛法中这句话基本要阐述的是万物本空的理念,原是要使我们了解万事本无其永恒的体现,一切皆将坏散,教我们不要对万物起执情,而使身心不得自在。 结果有些人谈空却又恋空,其实恋取世事和恋空并无分别,同样是执取而不放。 说明了色和空是不相碍而相同的。 真正的静是心静而非形静,是在最忙碌的时候,仍能保持一种静的心境,不被外物牵动得心烦气躁。 我很欣赏这句话,同时也在参悟此种心境。 此万物为因缘所生,并非本来实有,因此其当体是空。 【五蕴】 指色、受、想、行、识。 【空即是色】 指人间之物质、身体本系空无实体,而由地、水、火、风四大和合而成,故称空即是色;四大若离散,则复归空无,故称色即是空。 空即是色,并非析色见空,而系体达色之当体即空之故,空者亦非意味断灭,即有即空方是真空。 此真空既为有,故必不异于有,以空即是有,而说空即是色。 指真空不异于色法,空的当体即是色。 可以理解为:以物质为表象的世界其实质是空无所有的,而所谓"空无所有"是依心起解的。 所以色即是空--相对人的认识的表象世界是空的,而空的表现形式是依附于心(例:人)的认识的--空即是色。 2008-11-25 回答 色不异空,空不异色;色即是空,空即是色;受,想,行,识,亦复如是. 这段经文,是上承"五蕴皆空"而来的,五蕴可摄入色,心二法,所以前四句是色法,後四字——受,想,行,识四者是心法,在我人的执著中,"色身"最难破,因为明明有一个实在的我,要说它不异於空,难免使人困惑,所以破五蕴,特别於色蕴加重语气. 色蕴不仅指我人的色身,同时也包括宇宙万有的种种色法——宇宙间所有的物质现象在内,因此本文在此所谈的色空问题,是以宇宙间的物质现象为主,自然也包括了我人的色身在内. 原来"空"之一字,义理甚深,要说到空的性体,就到了真如实相——涅盘境界,涅盘是圣者所证的境界,是无以用语言文字所可诠解表达的,所以我们只能就空义中最粗浅部分——"缘起性空"部分加以说明. 要说"空",先要知道这个空字的来源,佛经都是由梵文翻译过来的,所以这个空字也是由梵文译过来. 那麼,在梵文中这个空字是什麼意思呢 多年前的中央日报上,有一篇澹思先生"论空即是色"的文章,把这个空字的来源和意义说得很清楚,现在摘录一段如下: "空,在梵文里叫Sunyata 音舜若多 ,实际上,Sunyata不能简称为空,而应称为"空性",ta在此是一个接尾词,Sunya是一个语根,当然我们可以把Sunya叫做空,但在"色即是空"这句话里,原文并不是Sunya,而是Sunyata,有此一接尾词的ta字,在梵文里与只是Sunya一字,那就大有区别了,ta的意思有性质,实在,形态等义,空与空性是有著不同的意义,这特别在龙树的思想里,单讲空Sunya,梵文里本也有虚无,非有等义,但同时也可解做空寂,空净等义. 就境界说,空寂并非"虚无",空净也不是"非有"的,讲到空性Sunyata,这问题就更大了. 空性这句话,在龙树的中论观Madhyamaka-sastra里,原是指缘起性Paratitya Samupadata的实义而言……. " 澹思先生的这段文字,把空与空性分析得很清楚. 事实上,在"唐罽宾国三藏般若共利言等译"的心经上,在"观自在菩萨,行深般若波罗蜜多时"的下一句,译的就是"五蕴性空",而不是五蕴皆空,唐法月的译本则是:"照见五蕴自性皆空". 而玄奘法师的译本,却是"五蕴皆空". 当然,玄奘法师这样译,一定有他的见解,只是我们末法时代的众生,根器闇钝,只就字面的意义来看,以致千载以下,引起了多少误解. 佛法中说的空,是"缘起性空"的空,是"因缘所生法",本身无"自性"的空,不是空无所有的顽空,也不是拨无因果的断灭空,我们先自一个小故事说起: 释迦牟尼佛住世的时候,在王舍城外竹林精舍说法,这时有两个修习外道的沙门,一个名叫舍利弗——就是本经文中的舍利子,另一个名目犍连,他二人智慧超群,名望素著,每人座下都有上百名弟子. 有一天,舍利弗途遇释迦世尊的弟子马胜比丘,他见马胜比丘威仪殊胜,举止安详,心生敬羡,便问马胜比丘道: "请问令师是谁,他平常说些什麼教法呢 " 马胜比丘答曰:"我师释迦世尊,他的智慧神通,无人可比,我年纪幼小,受学日浅,尚领会不了我师说的妙法. " 舍利弗一再请求说:"请慈悲方便,略说一二. " 马胜比丘说偈道:"诸法因缘生,诸法因缘灭,我师大沙门,常作如是说. " 舍利弗听了此偈,当下大悟,他返回住所,约同目犍连和他们的弟子,一同皈依释迦牟尼世尊. 为什麼舍利弗听了"诸法因缘生,诸法因缘灭"这两句话,就舍弃自己修习多年的道法,而皈依到释迦世尊的座下呢 实是因为他多年参不透的真理,在这两句偈中得到了解答. 舍利弗在佛弟子中号称智慧第一,未皈依世尊前已修道多年,所以听到妙理,一言开悟,而皈依世尊. 照佛法说,世间万有的生成与还灭,皆由於"因缘"二字——具足说是"因缘果报". 因是主因,缘是助缘,由因缘和合所产生的事物叫果,此果对造因来说称报. 这是综合色,心二法,包括宇宙万有的法则,佛法中为说明此一法则,曾立有六因,四缘,五果之说. 为篇幅所限,此处未能一一细述. 因与缘,佛法上不曾有严格的界说,但自相对的差别言,因约指特性说,缘约指力用说. 因是指一件事物生灭的主要条件,缘则为辅助条件,若以现代语言来说,就是一切事物生灭的条件及关系. 也就是说,每一件事物的生成或还灭,必须具备其生灭的条件,每一件事物的存在,必须具备与其他事物互相关连的关系. 四阿含经对因缘二字的解释是:"此有故彼有,此生故彼生,此无故彼无,此灭故彼灭. " 任何事物,不能无因生灭. 但有因无缘,亦不能生灭. 例如一粒种子,若不埋在土壤中,再加上阳光雨露等助缘,则种子就不会萌芽生长;一堆砖瓦木石,若不经泥工木工等助缘,也不会变成房屋. 因此可知,世间万法,皆由因缘和合而生,既是"因缘所生法",未生之前本无此物,既灭之後亦无此物,在生後灭前存在期间,不过是因缘和合下一时的假相,没有其本体和自性. 譬如以砖瓦木石,加以人工建成的房舍,自我们凡夫观之,房舍是存在的实体. 但在智者眼中,砖瓦自砖瓦,木石自木石,房舍只是众缘和合的假相,没有房舍的自性本体. 这叫做"即色明空". 因此,中论偈中曰:"因缘所生法,我说即是空". 至於说,房舍内外的空间,那是"色外之空",叫做顽空,房舍毁灭之空,是断灭空,都不是性空的本义,明乎此,则可知佛法上的空,是性空而非相空,是理空而非事空,这种空,佛法上叫做"缘起性空". 在佛法中,对於色蕴的"色",还另有一种解释,叫做"众微聚". 照佛经中说,把一粒羊毛尘分做七分,其七分之一的单位称兔毛尘,兔毛尘再七分,称水尘,水尘再七分,称金尘 金尘,意谓其可游行於金—— 金属物的空隙中,这是不是相当於金属原子中的质子 金尘再七分为实极微,实极微再七分称色聚微……,这些极微存在於空中,称"空界色",而"色"又称"众微聚",所以宇宙间的物质现象,是众微积聚而成的 心经经文,说"五蕴皆空",说"色不异空",说"色即是空",意思是说宇宙万有,由根身到器界,皆是因缘和合而有,没有绝对的本质——自性,实体,要我人认清字宙人生的真象,破除我人的"我执"与"法执",并不是说"空"即是一切没有,如果我们会错意,当真认为一切皆空,那就又成为一种执著——空执. 执有固然是病,执空也是病,所以经文中在"色不异空"之後,接著说:"空不异色";在"色即是空"之後,又说"空即是色". 前者是破除迷界的旧执著,後者是建立悟界的新观念;前者是否定,後者是承认. 这话看似矛盾,而实并行不悖. 中论上说: "因缘所生法,我说即是空,亦名为假名,亦名中道义". 宇宙万法,诚然没有"实体",皆是"性空",但我人不能不承认它有"假名",有"相用",性空相有,立以假名,这就是中道. 我们放眼看世间,何者不是"假名" 五蕴和合,而有人我;四大积聚,而有万法,万法因假名而立,毕竟没有实体,譬如我们说一所学校,学校是由土地房舍,教师学生,教具设备所组成的,学校只是一个"假名",何尝有"学校"的实体 我们说一个公司,公司是资金,经理,职员,业务所组成,公司只是一个"假名",又何尝有公司的实体 我们把一个陶土加彩釉烧成腹大口小的筒状物,叫做花瓶,如果我们不拿它插花,而用以装水,它就成了水瓶;如果用以装酒装醋,它岂不成了酒瓶醋瓶 我们把砖瓦木石所建的房舍,叫店面,叫住宅,叫公寓,叫别墅,可是如果换换用途,它可能就成了工厂,仓库,办公室,停车间,同一样东西而有这麼多名称,它何尝有自己的实体 这些名称,岂不都是假名 除掉教师学生就不成学校,除掉资金业务就没有公司;除掉陶土彩釉就没有花瓶,除掉砖瓦木石也没有房舍,这一切,都是因缘和合而有,没有"自性",没有"实体",所以说它是空——缘起性空. 可是,这些东西虽然没有实体,但不能说它没有相用,房舍中布置教具,就有学校,可以教育子弟;店面外挂上招牌,就是公司,可以经营贸易;陶士彩釉制成的瓶可以插花,可以装酒;砖瓦木石建成的屋可以住人,可以开店,它们各有其"相",各有其"用",虽然"缘起性空",一切法是"自性空",但因"性空缘起",一切法又是"假名有". 因此,"色不异空","色即是空",是因缘所生之法,毕竟是"自性空";而"空不异色","空即是色",是因缘所生之法,有相有用,到底是"假名有". 由自性空利假名有,是要我人不著空有二边,而求合乎中道. 正是由于不守恒事物具有这些独特的性质,不守恒事物才通过物质世界中的物质作为载体表现出不守恒现象,这是一个符合逻辑必然性的推论。 有钱的捐点 有情爱的赶紧付出点 有权的赶紧给老百姓办点好事 即使死了也问心无愧被人缅怀思念.

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色即是空空即是色_百度百科

色即是空 空即是色 違い

佛法中这句话基本要阐述的是万物本空的理念,原是要使我们了解万事本无其永恒的体现,一切皆将坏散,教我们不要对万物起执情,而使身心不得自在。 结果有些人谈空却又恋空,其实恋取世事和恋空并无分别,同样是执取而不放。 说明了色和空是不相碍而相同的。 真正的静是心静而非形静,是在最忙碌的时候,仍能保持一种静的心境,不被外物牵动得心烦气躁。 我很欣赏这句话,同时也在参悟此种心境。 此万物为因缘所生,并非本来实有,因此其当体是空。 【五蕴】 指色、受、想、行、识。 【空即是色】 指人间之物质、身体本系空无实体,而由地、水、火、风四大和合而成,故称空即是色;四大若离散,则复归空无,故称色即是空。 空即是色,并非析色见空,而系体达色之当体即空之故,空者亦非意味断灭,即有即空方是真空。 此真空既为有,故必不异于有,以空即是有,而说空即是色。 指真空不异于色法,空的当体即是色。 可以理解为:以物质为表象的世界其实质是空无所有的,而所谓"空无所有"是依心起解的。 所以色即是空--相对人的认识的表象世界是空的,而空的表现形式是依附于心(例:人)的认识的--空即是色。 2008-11-25 回答 色不异空,空不异色;色即是空,空即是色;受,想,行,识,亦复如是. 这段经文,是上承"五蕴皆空"而来的,五蕴可摄入色,心二法,所以前四句是色法,後四字——受,想,行,识四者是心法,在我人的执著中,"色身"最难破,因为明明有一个实在的我,要说它不异於空,难免使人困惑,所以破五蕴,特别於色蕴加重语气. 色蕴不仅指我人的色身,同时也包括宇宙万有的种种色法——宇宙间所有的物质现象在内,因此本文在此所谈的色空问题,是以宇宙间的物质现象为主,自然也包括了我人的色身在内. 原来"空"之一字,义理甚深,要说到空的性体,就到了真如实相——涅盘境界,涅盘是圣者所证的境界,是无以用语言文字所可诠解表达的,所以我们只能就空义中最粗浅部分——"缘起性空"部分加以说明. 要说"空",先要知道这个空字的来源,佛经都是由梵文翻译过来的,所以这个空字也是由梵文译过来. 那麼,在梵文中这个空字是什麼意思呢 多年前的中央日报上,有一篇澹思先生"论空即是色"的文章,把这个空字的来源和意义说得很清楚,现在摘录一段如下: "空,在梵文里叫Sunyata 音舜若多 ,实际上,Sunyata不能简称为空,而应称为"空性",ta在此是一个接尾词,Sunya是一个语根,当然我们可以把Sunya叫做空,但在"色即是空"这句话里,原文并不是Sunya,而是Sunyata,有此一接尾词的ta字,在梵文里与只是Sunya一字,那就大有区别了,ta的意思有性质,实在,形态等义,空与空性是有著不同的意义,这特别在龙树的思想里,单讲空Sunya,梵文里本也有虚无,非有等义,但同时也可解做空寂,空净等义. 就境界说,空寂并非"虚无",空净也不是"非有"的,讲到空性Sunyata,这问题就更大了. 空性这句话,在龙树的中论观Madhyamaka-sastra里,原是指缘起性Paratitya Samupadata的实义而言……. " 澹思先生的这段文字,把空与空性分析得很清楚. 事实上,在"唐罽宾国三藏般若共利言等译"的心经上,在"观自在菩萨,行深般若波罗蜜多时"的下一句,译的就是"五蕴性空",而不是五蕴皆空,唐法月的译本则是:"照见五蕴自性皆空". 而玄奘法师的译本,却是"五蕴皆空". 当然,玄奘法师这样译,一定有他的见解,只是我们末法时代的众生,根器闇钝,只就字面的意义来看,以致千载以下,引起了多少误解. 佛法中说的空,是"缘起性空"的空,是"因缘所生法",本身无"自性"的空,不是空无所有的顽空,也不是拨无因果的断灭空,我们先自一个小故事说起: 释迦牟尼佛住世的时候,在王舍城外竹林精舍说法,这时有两个修习外道的沙门,一个名叫舍利弗——就是本经文中的舍利子,另一个名目犍连,他二人智慧超群,名望素著,每人座下都有上百名弟子. 有一天,舍利弗途遇释迦世尊的弟子马胜比丘,他见马胜比丘威仪殊胜,举止安详,心生敬羡,便问马胜比丘道: "请问令师是谁,他平常说些什麼教法呢 " 马胜比丘答曰:"我师释迦世尊,他的智慧神通,无人可比,我年纪幼小,受学日浅,尚领会不了我师说的妙法. " 舍利弗一再请求说:"请慈悲方便,略说一二. " 马胜比丘说偈道:"诸法因缘生,诸法因缘灭,我师大沙门,常作如是说. " 舍利弗听了此偈,当下大悟,他返回住所,约同目犍连和他们的弟子,一同皈依释迦牟尼世尊. 为什麼舍利弗听了"诸法因缘生,诸法因缘灭"这两句话,就舍弃自己修习多年的道法,而皈依到释迦世尊的座下呢 实是因为他多年参不透的真理,在这两句偈中得到了解答. 舍利弗在佛弟子中号称智慧第一,未皈依世尊前已修道多年,所以听到妙理,一言开悟,而皈依世尊. 照佛法说,世间万有的生成与还灭,皆由於"因缘"二字——具足说是"因缘果报". 因是主因,缘是助缘,由因缘和合所产生的事物叫果,此果对造因来说称报. 这是综合色,心二法,包括宇宙万有的法则,佛法中为说明此一法则,曾立有六因,四缘,五果之说. 为篇幅所限,此处未能一一细述. 因与缘,佛法上不曾有严格的界说,但自相对的差别言,因约指特性说,缘约指力用说. 因是指一件事物生灭的主要条件,缘则为辅助条件,若以现代语言来说,就是一切事物生灭的条件及关系. 也就是说,每一件事物的生成或还灭,必须具备其生灭的条件,每一件事物的存在,必须具备与其他事物互相关连的关系. 四阿含经对因缘二字的解释是:"此有故彼有,此生故彼生,此无故彼无,此灭故彼灭. " 任何事物,不能无因生灭. 但有因无缘,亦不能生灭. 例如一粒种子,若不埋在土壤中,再加上阳光雨露等助缘,则种子就不会萌芽生长;一堆砖瓦木石,若不经泥工木工等助缘,也不会变成房屋. 因此可知,世间万法,皆由因缘和合而生,既是"因缘所生法",未生之前本无此物,既灭之後亦无此物,在生後灭前存在期间,不过是因缘和合下一时的假相,没有其本体和自性. 譬如以砖瓦木石,加以人工建成的房舍,自我们凡夫观之,房舍是存在的实体. 但在智者眼中,砖瓦自砖瓦,木石自木石,房舍只是众缘和合的假相,没有房舍的自性本体. 这叫做"即色明空". 因此,中论偈中曰:"因缘所生法,我说即是空". 至於说,房舍内外的空间,那是"色外之空",叫做顽空,房舍毁灭之空,是断灭空,都不是性空的本义,明乎此,则可知佛法上的空,是性空而非相空,是理空而非事空,这种空,佛法上叫做"缘起性空". 在佛法中,对於色蕴的"色",还另有一种解释,叫做"众微聚". 照佛经中说,把一粒羊毛尘分做七分,其七分之一的单位称兔毛尘,兔毛尘再七分,称水尘,水尘再七分,称金尘 金尘,意谓其可游行於金—— 金属物的空隙中,这是不是相当於金属原子中的质子 金尘再七分为实极微,实极微再七分称色聚微……,这些极微存在於空中,称"空界色",而"色"又称"众微聚",所以宇宙间的物质现象,是众微积聚而成的 心经经文,说"五蕴皆空",说"色不异空",说"色即是空",意思是说宇宙万有,由根身到器界,皆是因缘和合而有,没有绝对的本质——自性,实体,要我人认清字宙人生的真象,破除我人的"我执"与"法执",并不是说"空"即是一切没有,如果我们会错意,当真认为一切皆空,那就又成为一种执著——空执. 执有固然是病,执空也是病,所以经文中在"色不异空"之後,接著说:"空不异色";在"色即是空"之後,又说"空即是色". 前者是破除迷界的旧执著,後者是建立悟界的新观念;前者是否定,後者是承认. 这话看似矛盾,而实并行不悖. 中论上说: "因缘所生法,我说即是空,亦名为假名,亦名中道义". 宇宙万法,诚然没有"实体",皆是"性空",但我人不能不承认它有"假名",有"相用",性空相有,立以假名,这就是中道. 我们放眼看世间,何者不是"假名" 五蕴和合,而有人我;四大积聚,而有万法,万法因假名而立,毕竟没有实体,譬如我们说一所学校,学校是由土地房舍,教师学生,教具设备所组成的,学校只是一个"假名",何尝有"学校"的实体 我们说一个公司,公司是资金,经理,职员,业务所组成,公司只是一个"假名",又何尝有公司的实体 我们把一个陶土加彩釉烧成腹大口小的筒状物,叫做花瓶,如果我们不拿它插花,而用以装水,它就成了水瓶;如果用以装酒装醋,它岂不成了酒瓶醋瓶 我们把砖瓦木石所建的房舍,叫店面,叫住宅,叫公寓,叫别墅,可是如果换换用途,它可能就成了工厂,仓库,办公室,停车间,同一样东西而有这麼多名称,它何尝有自己的实体 这些名称,岂不都是假名 除掉教师学生就不成学校,除掉资金业务就没有公司;除掉陶土彩釉就没有花瓶,除掉砖瓦木石也没有房舍,这一切,都是因缘和合而有,没有"自性",没有"实体",所以说它是空——缘起性空. 可是,这些东西虽然没有实体,但不能说它没有相用,房舍中布置教具,就有学校,可以教育子弟;店面外挂上招牌,就是公司,可以经营贸易;陶士彩釉制成的瓶可以插花,可以装酒;砖瓦木石建成的屋可以住人,可以开店,它们各有其"相",各有其"用",虽然"缘起性空",一切法是"自性空",但因"性空缘起",一切法又是"假名有". 因此,"色不异空","色即是空",是因缘所生之法,毕竟是"自性空";而"空不异色","空即是色",是因缘所生之法,有相有用,到底是"假名有". 由自性空利假名有,是要我人不著空有二边,而求合乎中道. 正是由于不守恒事物具有这些独特的性质,不守恒事物才通过物质世界中的物质作为载体表现出不守恒现象,这是一个符合逻辑必然性的推论。 有钱的捐点 有情爱的赶紧付出点 有权的赶紧给老百姓办点好事 即使死了也问心无愧被人缅怀思念.

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